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2.29 Wed. Mekaal Hasan Interview

2.29 Wed. Mekaal Hasan Interview_c0008520_21533445.jpg2月29日水ラホールのプロデューサー/ギタリスト、ミカール・ハサン取材

 疲れていたはずなのに、午前7時には目が覚めてしまう。寝る前にセットしたカメラのバッテリーの充電器がまだ赤いままだ。ということは三時間ちょっとしか寝ていないのか。カウワーリーの興奮、そしてサッチャルジャズの興奮で身体が覚醒してしまっているのだろう。
 今日は午前中はゆっくりする予定だったが、バダル・アリーと弟が最後にもう一度挨拶に来てくれた。彼らは日本ビザを取得するため今夜イスラマバードに行き、アトハルさんに会う予定となっている。前夜の盗難は念のため警察に申告してくれたという。あの悪ガキ、警察でリンチ受けてないかなあ?
 12時前にフォートレスプラザに向かう。途中、軍隊のチェックポイントを通り、パスポートを見せろと言われる。パスポート持ってきて良かった。僕はいつもの旅ではパスポートはホテルに預けたり、スーツケースの中に施錠して入れたりして、持って歩かないのだが、この国では何があるかわからないので、持って歩いていた。そしたらこういう事になる。
 フォートレスプラザは軍のカントンメントの中にあるので、どうしてもチェックがあるらしい。着いた先は巨大なスタジアムを取り囲む形でお店が広がっている。一軒一軒を見て回り、ゆりこが二軒で服を買い、中華料理屋でお昼を取る。スープを飲むとどういう訳か身体中に疲れが回り、気持ち悪くなり、クラクラし始めた。それが僕だけでなく、ゆりこも村山先生も同じ事を言っている。中華スープに入っていたドンコが日本製で猛烈な放射能を発していたのか? それとも中途半端に座面の高いイスで足が宙ぶらりんになり、鬱血していたのがスープによって全身に血が回り始めたのか? それとも先ほどの店で付けられた安物の男性用香水のニオイに気持ち悪くなったのか? 席についているとますます気持ちが悪くなってきたので洗面所に行くと、その歩く行為が良かったらしく、気持ち悪さがすぐに消えていった。二人も座面が高いイスが合わないらしく、店を早めに出たら、気分が良くなったという。一時はどうなるかと思った。
 午後2時の日差しはもうギラギラ。日に日に暑くなっている。日本は真冬が戻ってきたというが、こちらは確実に酷暑期に近づいている。もうジャケットを着てられない。
 フォートレスからリキシャでホテルに戻り、4時半に今度はミカール・ハッサンの自宅兼スタジオに向かう。前日のサッチャル・ステュディオと同じワーリス通りにある。リキシャを降り、道を迷いながら探していると、サッチャルの前で、あのメンバーが楽器を持って降りてきている。その前には西洋人のテレビクルーがカメラをセットしている。前日にアメリカ人のテレビ局がドキュメンタリーを作り始めていると聞いた。それが早速来ているのだろうか?

2.29 Wed. Mekaal Hasan Interview_c0008520_21511186.jpgミカール・ハサンの家はワーリス通りを脇に入り、途端に広がる閑静な住宅街の奥の奥にあった。
 広い緑の庭の手前にガレージがあり、そこにヘビーメタル風の長髪をしたミカールがいた。
 「ちょうど、迎えに行かせた所だったんだよ」
 握手をすると途端に彼の携帯が鳴り、インド英語で話し始める。「僕の父親がいつ生まれたかって? 1942年、ジャンムー生まれだよ。英国領インドさ。それからラホールに来た」
 今月中旬から行われる彼のバンドのインドツアーのため、インド側のマネージャーが彼のビザ申請のための手続きで色々電話してくるとのことだった。緑に囲まれた庭と、木造二階建ての洒落た母屋、そして離れが彼のレコーディングスタジオになっている。スタジオの内装は日本のプロのスタジオと同じような木張りのえらくゴージャスな防音内装で、奥にはロックバンドがそのまま入れそうな広さの録音ブースがあり、手前がミキシングブース。個人の家でここまですごい作りとは、両親がさぞかしお金持ちなのだろう。
 日が暮れる前にまず写真を撮らせてくれと頼むと、彼は照れながら庭で撮影会に応じてくれた。写真に照れが写っている。

2.29 Wed. Mekaal Hasan Interview_c0008520_21511878.jpg録音ブースでインタビューを始める。スタジオはかつての駐車場と物置を改装したもので、12年前に建てた。彼の父親は詩人で物書きで、ラホール一のジャズのコレクターで、ラジオでジャズの番組を持っていた。そして母親は文学教授で、彼の家族にはスーフィー詩人の詩の翻訳で有名になった叔父がいると言う。音楽家は彼だけだが、芸術に理解のある家族の中で彼は育った。
 「僕は理解のある両親に恵まれて、自分の好きな事を追求しろと育てられた。僕は本当にラッキーだった」と言う。
 彼は1972年ラホール生まれ。11歳でピアノを習い、その後ギターを学び、パット・メセニーに多大な影響を受けた。
 21歳でアメリカのバークレー音楽院に入学し、二年ギターを学んだ。そこでトニーニョ・オルタやアストル・ピアソラの音楽を知り、自分がパキスタン人として音楽を作るにあたり、それまでに学んできた西洋音楽だけではダメだと気づいた。
 パキスタンに帰国後は、様々なバンドや音楽家とセッションを行い、その中で北インド古典の演奏家たちと出会い、現在のミカール・ハサン・バンドのメンバーと出会った。同時にラホールの既存のスタジオでは自分の求める音楽は作れないことがわかり、録音やエンジニアリングを自力で学び、自分のスタジオを作り、他人のための録音やプロデュースを始めた。なのでまず音楽家としてより、エンジニアやプロデューサーとして彼は有名になった。プロデュースしたのはパキスタンを代表するロックバンドJunoonやイケメンSSWのAtif Aslaf他。事務所にはこれまでに受賞した数々の賞のトロフィーが並んでいた。
 自分のバンドと音楽を追究するにあたり参考としたのはかつてのウェザー・リポートだった。ジョー・ザヴィヌルの多文化音楽を取り入れながらの作曲方法に多大な影響を受けた。自分の音楽は100%西洋音楽ではあるが、バンドでは古典音楽の音楽家たちと常に新しい音楽を模索している。
 パキスタンではバンドの公演が厳しく制限されていて、今では学生ホールなどの小さなホールでしか演奏出来ない。すると箱の規模は小さくなり、バンドのメンバーのペイも減り、同時にスポンサーも付いてくれなくなるのでとてもハードだ。それに海外公演のためのビザも取得が難しい。「今、インド人の若者なら、無限の可能性があるだろう。世界中からインドの文化は求められているし、経済も強い。しかし僕たちはそのインドで演奏するにもビザやその他の問題で苦しめられる。パキスタンで自分の音楽を続けるのは本当にタフなことだ。僕は家族に恵まれ、とてもラッキーだった」
 こんな話を続けているうちにスタジオにミュージシャンたちが集まってきたので、ブースでのインタビューを中断し、事務スペースでインタビューを続ける。その間ひっきりなしに彼の携帯が鳴り中断させられる。スタジオを他の音楽家達に貸すこともあるのか?と聞くと、「今日は彼の助手たちがジングルのレコーディングを行っている。それがサバイバルするための仕事なnだ」とのこと。
 そして「スーフィーロック」というジャンルについても聞いてみた。「ジュヌーンはインドのメディアによって「スーフィーロック」と呼ばれるようになったけど、彼らがスーフィーの詩を用いているのは2曲くらいで、他はスーフィーの詩は用いていないんだ」とのこと。
 それに対する僕の質問。「君の曲はインストルメンタルの曲でも僕達日本人にとってスーフィー的に聞こえる」
 「それは多分、ジャズに用いる三連のリズムを用いていること、重いサウンドを心がけているが、それをハードロック的な重さではなく、別の方法を用いて表現していることで、サウンドにそうした感覚が生まれるのかもしれない。自分のサウンドはスーフィーを意識したことはないけど、僕は歌詞よりもサウンドやメロディーを常に先行して聞いているからではないだろうか」とのこと。

2.29 Wed. Mekaal Hasan Interview_c0008520_21512547.jpgそれから彼の名前Mekaal Hasanはなんと読むのか、本人に直接聞くと「ミカール・ハサン」とのことでした。
 インタビューを終えると、彼の父親が挨拶に来て、僕達に「なぜ君達は日本の素晴らしいジャズを聴かないのか?」と聞いてきた。日本のジャズを聴かないような人間だから、ここに来ているんですよ!
 帰り道はミカールが車でホテルまで送ってくれた。別れ際に「ラホールの音楽シーンに興味があり、会いたい人間がいたら、いつでも連絡してくれ」と言われた。

2.29 Wed. Mekaal Hasan Interview_c0008520_21512541.jpgホテルに戻ると、連日の疲れが出て、ゆりこは部屋で休むと言うので、僕と村山先生だけで近くの路上食堂に行く。ホテルの目の前のマウルロードは片側三車線の広い道路。夜8時から9時の計画停電で街灯がない。そのため、突っ込んでくる車のヘッドライトだけが灯りだ。車のライトをよけながら、道を渡り、ちょっと歩いた所にある路上のシャワルマ屋で、チキンスープとシャシャリクというストリートジャンクフードを頼む。もちろんシャワルマはアラブ起源であり、パキスタンに入ってきたのはこの10年ほどらしい。シャシャリクはそのシャワルマ400gくらいをトマトケチャップでちょっと煮て、2合分くらいのバターライスの上に乗せ、サラダを散らした、沖縄のタコライスのパキスタン版か。日本にいてもケチャップやマヨネーズを買ったことのない僕には刺激が強い。しかも量が多くてビックリ。二人分にしても多いほどだ。値段はスープとスプライト、さらに持ち帰りのチキンスープをつけて530ルピー、約500円だった。
 近くの友人を訪ねるという村山先生を残し、僕だけホテルに戻る。夜9時、ゆりこにチキンスープを渡し、ルームサービスのチャーイを一口飲んだ段階で、疲れきっていてもう起きていられない。9時半に耳栓とアイマスクをして、ベッドに倒れ込んだ瞬間、眠りについた。

by salamunagami | 2012-03-02 21:56 | エキゾ旅行  

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